1本の民事信託の中に、借入金のない土地と、借入金が残る賃貸アパートが入っている。
この信託受益権を贈与するとき、プラスの財産とマイナスの借入金を相殺して評価できるのか。
受益権の「何分の何」だけを贈与して、特定の物件だけを渡すことはできるのか。
条文・通達・判例に沿って整理します。
設例:委託者兼当初受益者である個人Aを受益者とする民事信託(受益者等課税信託)が1本ある。
信託財産は、借入金のない土地(相続税評価額100)と、信託内借入200が残る賃貸アパート(相続税評価額100)。
Aはこの信託受益権を、第三者(会社または個人)へ贈与したいと考えている。
検討したいのは次の点である。
相続税評価額ベースでプラスとマイナスを相殺し、課税価格ゼロとする処理は、認められない可能性が高いと考えられます。
借入金付きの受益権贈与は負担付贈与(または低額譲受)として扱われ、
不動産部分は相続税評価額ではなく通常の取引価額(時価)で評価した上で債務額を控除するのが課税実務の枠組みです(負担付贈与通達、相基通21の2-4)。
さらに、贈与者側には債務引受額を収入金額とする譲渡所得課税が生じます(所得税法33条、最高裁昭和63年7月19日判決、所基通33-1の8)。
また、贈与契約書に「受益権の○分の○」と書くだけの割合的一部贈与は、
信託財産の全資産・全負債に対する割合的持分の移転(借入金も按分で承継する負担付贈与)と扱われると考えられ、
「土地だけを切り出す」効果は贈与契約書では作れません。
土地だけを渡したい場合の正攻法は、信託契約の変更による受益権の質的分割、または信託の分割を先行させる方法です。
受益者等課税信託では、適正な対価を負担せずに新たに受益者となった者は、
従前の受益者から信託に関する権利を贈与により取得したものとみなされます(相続税法9条の2第2項)。
このとき受益者は、信託財産に属する資産および負債を取得し、または承継したものとみなして相続税法の規定が適用されます(相続税法9条の2第6項)。
受益者が複数となる場合は、信託に関する権利の全部を、
各受益者が「その有する権利の内容に応じて」有するものとされます(相続税法施行令1条の12第3項)。
信託財産責任負担債務(信託内借入)が受益者に帰属する取り扱いは、相基通9の3-3にも示されています。
つまり税務上は「受益権」という1枚の紙ではなく、
その中身である土地・アパート・借入金を受益者が直接持っているものとして課税関係を考える、というのが出発点になります。
財産評価基本通達202(1)は、元本と収益の受益者が同一である受益権を
「課税時期における信託財産の価額」で評価するとしており、負債を控除する旨の明文はありません。
「評価通達や相続税法基本通達に相殺の根拠が見当たらない」という実務家の感覚は、通達レベルでは正しいといえます。
一方で、負債の承継を課税上考慮する仕組みが全くないわけではありません。
ただし、その仕組みが導くのは「評価額同士の相殺による非課税」ではなく、「負担付贈与としての時価課税」です。
かつて土地信託については、債務付き受益権を贈与により取得した場合、
「その債務の額に相当する対価の額によって当該信託財産の各構成物を取得したもの」として
相続税法7条(低額譲受のみなし贈与)を適用する取り扱いが個別通達に明記されていた。
「評価額100+100-借入200=ゼロで贈与税なし」という処理には根拠がなく、
現行実務の枠組みでは、不動産を時価で評価し直した純額に課税される可能性が高いと考えられます。
評価額と時価の乖離を利用した設計に対しては、
財産評価基本通達6項(総則6項)による否認の可能性も残ります(最高裁令和4年4月19日判決参照)。
相続・遺贈の場面では、信託財産に帰属する債務は債務控除(相続税法13条・14条)の対象となり、
相続税評価額ベースの純額計算が働きます。
これに対して贈与の場面では、そもそも債務控除という制度がなく、
債務付きの移転は負担付贈与の枠組み(時価評価)で処理されます。
「相続ならできる純額計算が、贈与ではできない」という非対称が、本論点の分かりにくさの正体です。
信託内借入の対外的な債務者は受託者のままですが(信託法21条1項5号)、
受益権の贈与により受贈者は負債を承継したものとみなされるため(相続税法9条の2第6項)、
経済実質として負担付贈与と同視されると考えられます。
負担が特定の不動産に直接紐づいている必要はなく、
実質的な負担の移転が客観的に示されるかどうかで判断されます。
国税庁質疑応答事例「賃貸アパートの贈与に係る負担付贈与通達の適用関係」は、
敷金返還債務相当の現金を同時に贈与した場合は「実質的な負担がない」として通達の適用を否定しており、
裏返せば、実質負担が移転する場合には負担付贈与通達が適用されることを示しています。
| 立場 | 課税関係 |
|---|---|
| 受贈者が個人 | 贈与税。課税価格=信託財産(土地・アパート)の通常の取引価額-債務額(負担付贈与通達、相基通21の2-4)。 貸家・貸家建付地の評価減は相続税評価額ベースの概念のため、時価評価となる負担付贈与では基本的に働かない。 |
| 贈与者(個人) | 譲渡所得。債務引受による経済的利益が収入金額となる(所得税法33条・36条、最高裁昭和63年7月19日判決)。 受益権の譲渡は信託財産に属する資産の譲渡として扱われ、控除された債務額は収入金額に加算される(所基通33-1の8)。 収入金額は各資産の価額の比で按分し、取得費(建物は償却後)と比較して損益を計算する。 課税事業者の場合、建物対応部分が消費税の課税売上となる可能性もある(消費税法14条1項)。 |
| 受贈者が法人 | 贈与者側:みなし譲渡の判定(所得税法59条1項)。債務引受額が時価の2分の1未満なら時価譲渡とみなされる(所基通59-2)。判定は資産ごとでなく契約単位の対価総額で行う(所基通59-4)。 法人側:資産の時価と承継債務の差額が受贈益(法人税法22条2項)。 株主側:同族会社の場合、株式価値の増加部分につき株主へのみなし贈与(相続税法9条、相基通9-2)。 |
相続税評価額は土地100・アパート100、借入200。
時価は評価額を上回るのが通常のため、仮に土地120・アパート150(計270)と置いて比較します。
| パターン | 贈与税 | 贈与者の譲渡所得 | 主なリスク |
|---|---|---|---|
| A:受益権全部を1本の契約で贈与(負担付贈与) | 課税価格=時価270-200=70 (評価額ベースのゼロにはならない) |
収入金額200で計算 (相当の譲渡益が出やすい) |
プラスとマイナスの通算は同一契約内で完結する |
| B:信託の変更・分割を先行し、土地受益権のみ単純贈与 | 課税価格=相続税評価額100 (負担付贈与通達の適用なし) |
なし | 信託変更・分割の設計を誤ると別途みなし贈与のリスク |
| C:土地とアパートを別個の契約で贈与 | 土地:評価額100に課税 アパート:150-200=マイナス→切捨て(土地と通算不可) |
アパート分の収入金額は時価150が上限と解される | 債務超過部分50が受贈者から贈与者への利益移転となり、贈与者側にみなし贈与(相続税法8条・9条)のリスク |
債務と財産の帰属を分ければ分けるほど、
どこかで「債務免除・引受けによる利益」(相続税法8条)の課税が顔を出す構造になっています。
税負担の予見可能性・安全性の観点では、B、A、Cの順に有利と考えられます。
私法上、受益権の割合的な一部譲渡は可能です(信託法93条)。
譲渡後の受益権は譲渡人と譲受人の準共有となり、
対抗要件は受託者への通知または承諾です(信託法94条)。ここまでは弁護士実務の理解のとおりです。
しかし税務上は、受益者が複数となった場合、
各受益者は「その有する権利の内容に応じて」信託に関する権利の全部を有するものとされます(相続税法施行令1条の12第3項)。
信託行為(信託契約)で受益権が質的に区分されていない限り、
単なる量的(割合的)区分は全資産・全負債に及ぶと解されています。
受益権の内容(何に対する権利か)は信託行為で定まります。
信託契約上単一の受益権である以上、贈与契約書に「土地に相当する○分の○を贈与する」と書いても、
譲渡の目的物は単一受益権の割合的一部にとどまり、土地だけを切り出す効果は生じないと考えられます。
税務調査では、信託契約・信託目録の記載、受託者への通知・承諾、
信託の計算書・受益者別調書の記載、賃料の実際の分配状況が突合されます。
「○分の○」と記載した贈与契約書は、
むしろ割合的贈与(借入も按分承継する負担付贈与)であることの自認資料として働きます。
また、受託者には受益者変更等の事由が生じた月の翌月末日までに
「信託に関する受益者別(委託者別)調書」を税務署へ提出する義務があります(相続税法59条3項)。
登記をするかどうかにかかわらず、税務署が把握する建付けになっており、
把握されないことを前提とした設計は採るべきではありません。
流通税・手続の面では方法1または方法2が有利です。
いずれも信託契約の変更等が必要であり、贈与契約書だけで同じ効果を得ることはできません。
この場合の土地受益権の贈与は負担のない単純贈与となり、
課税価格は相続税評価額により(財産評価基本通達202(1))、贈与者に譲渡所得も生じないと考えられます。
本件は「受贈者が信託債務の経済的負担を承継することと引き換えに、受益権を無償で移転する」ものであり、
民法上は負担付贈与(民法553条)と性質決定されるのが自然と考えられます。
参考として、親族間で相続税評価額水準の対価により土地を売買した事案について、
相続税法7条の「著しく低い価額」に当たらないとした裁判例があります(東京地裁平成19年8月23日判決)。
ただしこれは売買(対価を伴う取引)の事案であり、
負担付贈与そのものへの通達適用を否定したものではない点に注意が必要です。
特定の物件だけを渡す設計を実行する場合の標準的な段取りは、次のとおりです。
いずれの段階も、書面(合意書・同意書・登記・調書)で経緯を残すことが後日の説明力になります。
信託の変更・分割と贈与の間には相応の時間的間隔を置き、
切り出し自体の独立した目的(管理の明確化など)を記録しておくことが、
一連の取引としてのみなし贈与認定(相続税法9条)への備えになります。
金融機関の承諾:信託内借入の金銭消費貸借契約では、受益者の変更が事前承諾事項や期限の利益喪失事由とされていることが多い。
無断の贈与は一括返済請求のリスクがあるため、税務の検討と並行して承諾の要否を確認する。
令和8年度税制改正大綱:課税時期前5年以内に対価を伴う取引で取得・新築した一定の貸付用不動産について、
通常の取引価額に相当する金額で評価する(取得価額を基に計算した価額の80%相当で評価することができる)方向の見直しが盛り込まれ、
令和9年1月1日以後の相続・贈与から適用予定とされている。
物件の取得時期によっては「相続税評価額」という前提自体が変わるため、実行時期の検討では改正の確定内容の確認が必要。
先例の不存在:民事信託の受益権の負担付贈与や借入付き受益権の評価を正面から扱った公表裁決例・裁判例は確認できず、
この領域は法令・通達の構造からの解釈と実務見解で構成されている。
当局と見解が分かれた場合の予測可能性が低いことを踏まえ、
実行する場合は契約書・議事録等で経緯と実質を客観的に示せるようにしておく。